『長篠合戦と武田勝頼』の読書感想 – 「敗者」勝頼の実像に迫る本

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史)

武田勝頼は本当に暗愚な武将だったのか?敗者の視点から見た長篠戦いとは。

平山優著『長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館)の読書感想です。

この本について

新戦略(鉄砲)と旧戦略(騎馬隊)の対立軸で語られることの多い長篠戦い。

この合戦を史実に基づき丁寧に分析、「暗愚」とされてきた敗者、武田勝頼像を見なす刺激的な本。

この本を読むことで、一般的な長篠の戦いのイメージと、無能扱いされた武田勝頼の本当の人物像が見えてきます。

以下、本書の読書メモです。

長篠の戦いの従来のイメージ(P1)

長篠の戦いは、騎馬隊を主力とする旧式の武田軍と、鉄砲という新武器を大量運用した新式の織田軍、旧式と新式の戦いというイメージで語られること多い。

しかし、実際は武田騎馬隊や織田の鉄砲三段撃ちなど、その真偽に疑問を呈する声も多く、近年では、従来の長篠戦い像が否定されつつある。

同時代の人物による武田勝頼評(P4)

一般的に、武田勝頼と言えば、武田家を滅亡させた当主として、「無能で暗愚」など、ネガティブなイメージを持たれている。

しかし、武田勝頼=無能のイメージは、主に昭和期に確立されたものであり、それらの評価は、きちんとした研究に基づいたものがほとんどない。

勝頼が生きた時代の資料に基づき、勝頼像を再考すると、勝頼がただの無能な武将ではないという事実が浮かび上がってくる。

例えば、信玄以来の重臣であり川中島の海津城を守っていた高坂昌信は、勝頼について「強過ぎたる大将」という評価をしている。

「強過ぎたる大将」の特徴は、心強く機転がきき、弁舌があって知恵があり、一見理想の君主に見えること。

ただ、優秀で心が強いがゆえ、弱気を嫌い、慎重な行動を求める家臣を遠ざけ、周囲に君主の声に迎合するイエスマンが集まるようになる

君主に意見する家臣もいなくなり、かりに意見を言っても、弁舌がり知恵があるゆえ反論されてしまうため、皆意見が言えなくなってしまう。

武田勝頼はこの「強過ぎたる大将」の典型。

勇気があるがゆえ、家臣にも勇戦を求め、駆け引きを好まず、強者の家臣ほど前線で勇猛果敢にならざるを得ず、戦死してしまう。それが軍団の弱体化につながっていく。

勝頼は自身の権力基盤を盤石にし、父信玄を越えようと無理を重ねた結果、長篠の敗北、やがては武田の滅亡へつながっていく。

武田家滅亡の原因は勝頼の無能ゆえではない。

同時代を生きた信長は勝頼を「信玄の掟を守り表裏を心得た恐るべき武将」という評価を下し、かの上杉謙信も、「勝頼は片手間で片付けられる相手ではない、畿内戦略を中断しても、勝頼の先鋒を防がなければ、深刻な事態になる」と信長に警告している。

「強過ぎたる大将」というのが、本当の勝頼像を読み解くキーワードになる。

勝頼の出自(P24)

勝頼は信玄が滅ぼした諏訪家の娘に産ました子ども。そのため、勝頼は武田家を継ぐ予定はなく、武田家の通字である「信」の字がない。

虎、玄、義勝)

武田勝頼は諏訪勝頼(頼の字は諏訪家の通字)として認識されており、生まれながらにして他家の子どもであった。

重臣との対立(P59)

本来武田家を継ぐ予定のなかった勝頼は、その権力基盤に大きな脆弱性を抱えていた。

特に信玄以来の重臣たちとは反りがあわなかったようで、そこには勝頼の出自、武田家を継いだのは一時的なものと家臣と認識されていた。

勝頼はあくまで子どもの信勝が成長するまでの代打的な役割であったため、勝頼の権力基盤は非常に脆弱であった

勝頼が軍事行動を積極的に起こした理由(P116)

高天神城の攻略や遠江への進出など、勝頼は積極的な軍事行動を起こしているが、この理由は、領土拡大だけでなく、武田家での求心力を強める狙いもあった。

勝頼の権力基盤が脆弱であるがゆえ、周りに自身の力を示す必要があった。そのため、軍事行動を起こすことによって、武田家の武将たちへの影響力、求心力を強めようとした。

長篠の戦いの通説への疑問(P121)

一般的な長篠の戦いの通説は、武田騎馬隊が、信長の鉄砲隊の三段撃ちによって撃破された、旧式VS新式の戦いというイメージが強い。

しかし、このイメージは史実と異なる可能性が高い。ポイントは次の3つ。

1・長篠の戦いで信長が三千丁の鉄砲を用意したのは本当か?

→三千丁の根拠が乏しく、現代では否定されつつある。

2・鉄砲の三段撃ちはあったのか?

→鉄砲を活用したのは事実だが、三段撃ちがあったかどうかは怪しい。

3・武田勝頼の騎馬隊は存在したのか?

→武田騎馬隊は存在せず、近代以降に作られたただのイメージ。

このように、一般的な長篠の戦いのイメージは、史実とは異なる可能性が高い。

武田軍敗北の理由は兵力差(P242)

長篠の戦いで、武田軍は馬防柵を乗り越えて突撃したが、兵力不足(火力不足)のため、多勢に無勢、織田・徳川連合軍に大きなダメージを与えることができなかった。

武田軍は鉄砲隊にボコボコにされたイメージがあるが、実際の敗北要因は織田・徳川連合軍との兵力差にあった。

信玄の失敗(P271)

武田信玄は外交問題、相続問題、2つの失敗をした。

桶狭間の戦いで弱体化した同盟国、今川家の領土を欲した信玄だが、息子の義信がそれに反対。

今川家、北条家との同盟を維持し、織田・徳川との戦いを主張する義信に対し、信玄は今川家攻撃を選択。

これによって、義信と対立。武田家を継ぐはずの息子を死に追いやることになる。

そして、今川家を攻撃することで、北条家と対立。信玄は上杉、北条、徳川に包囲されるピンチに陥った。

信玄の失敗により武田家はピンチに、信長は畿内進出を実現、織田家拡大のチャンスとなった。

結局、信玄は北条と再同盟、信長と対立していくが、この基本路線を勝頼も引き継いだ。

外交の失敗が致命傷に(P277)

勝頼は長篠の戦いで大敗北、そこから坂を転げるように滅亡へ突き進んだイメージがあるがそうではない。

長篠の戦いの後も、家康と戦いを繰り広げ、領土を守っており、長篠の敗北以降も勢力を誇っていた

勝頼の致命傷となったのは、北条家との同盟破棄。

御館の乱により、勝頼は上杉景勝を支援。それによって北条家が激怒、父信玄と同じく、織田・徳川・北条、周囲から囲まれることになってしまった。

勝頼がツイていないのは、織田家の勢力が広範囲に拡大していたこと。状況が父信玄の時代とは全く違っていた。

北条と戦っている中、徳川から攻められ、最後には織田も進行、どうにもならなくなってしまい、武田は滅亡。

結局は、外交の失敗が、致命傷となってしまった。

北条家から武田家に嫁いで、天目山まで付き従った北条夫人の話を知ると、悲しいものがありますね。)

感想など

戦国時代、武田と言えば信玄。でも、個人的には信玄の息子で甲斐武田家最後の当主の勝頼に関心を持っています。

勝頼というと、長篠の戦いで信長の鉄砲隊に戦いを挑み大敗北、武田家を滅亡に導いた無能で暗愚な武将というイメージがあると思います。

某ゲーム会社の有名シリーズ『信○の野望』でも、大体が武力だけが高く、政治や知能が低い脳筋武将的な位置づけになっていますが、実際はどうだったのか?

本書『長篠合戦と武田勝頼』や『新府城と武田勝頼』、『「戦国大名」失敗の研究』などを読むと、実際に勝頼が脳筋の無能な武将だったかというと、そうでもなさそうです。

まぁ、歴史は結果主義なので、武田家を滅ぼしてしまったという事実から見れば、厳しい評価をされてしまうのは仕方がない部分もあるかもしれません。

しかし、織田家が勢力を拡大する厳しい状況の中、父親信玄の業を背負い、予定されなかった武田家の当主を引き継いだ勝頼は運がありません。

武田家を継いだときの難しい状態(脆弱な権力基盤)に加え、信長や家康は着々と勢力を拡大。信玄時代以上に難しい状況にあったのは間違いありません。

滅ぶ寸前で助かった上杉景勝のように、もう少しだけ運に恵まれていたなら、別の未来があったのではないか。

同時代を生きた信長や謙信に評価された勝頼は無能ではない、ただ生まれながら運に恵まれなかった悲運の男ではないか?

そう思えてなりません。

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