人に好かれたい。誰かに必要とされたい。そんな気持ちが強すぎるとこうなります。
小池龍之介著『「我」を張らない人づきあい』(サンガ)の読書感想です。
この本について
人気の僧侶である著者が自意識と自我の執着について、仏教的な視点から述べている本。
なぜ人に好かれようとすることは辛いことなのか、重荷を減らして生きていくためにはどうすればいいか、そのヒントをこの本で。
以下、本書の読書メモです。
人に好かれようとすること(P15)
「人に好かれたい」「モテたい」という努力は自分を隠蔽すること。
私たちは誰かとコミュニケーションをとるとき、本当は自分のことを全開で受け入れて欲しいが、それをしてしまうと人から受け入れられない。
だから人に好かれようと空気を読んだり、愛想を良くしたり、人の話に興味を持ったりして、自分を隠蔽するが、それが人付き合いをする上で、大きなストレスになる。
なぜ人付き合いで疲れるのか(P18)
相手に好かれるため、自分が思ってもみないことを口にし、本当の自分の気持ちと反する振る舞いをする。
それによって意識は無意識のうちに乖離し、そこにストレスが発生する。だから、建前重視で人に迎合していると、ストレスがたまり、疲れてしまう。
そして致命的なのは、人に好かれようとして振る舞ったところで、本当の自分を受け入れてもらえることはないといういこと。
仮に人から好かれたとしてもそれは、人から好かれようとして振る舞っている自分。だから、人から好かれようと振る舞っても結局のところ、真の人間関係を築くことはできない。
好かれるのは人に好かれようと演じている自分。だから人に好かれようとする振る舞いは、結局のところ虚しい。
現代人が求めているもの(P44)
「自分が他人から求められる、存在感のある人間」それこそが、今現代人が求めている者。
私たちは誰かに必要とされる自分を欲しているのは、人から求められることで、自分が何者かである意味を確認できるから。
逆に言えば、「誰からも必要とされない自分は価値がない」という考え方を持っているのが現代人なのかもしれない。
「自分のものにする」というストレス(P141)
所有はそれ自体がストレスになる。
最初に持つ喜びを実感していても、それを失う恐れや不安によってストレスを感じる。「これは自分のものだ」と考えてこだわり続けるうち、どんどん思考がものにとらわれていく。
それによって心は緊張し、ますます不自由になっていく。
手に入れる前は欲しくて仕方なかったのに、手に入れたら入れたで、それを失う恐怖や不安に悩まされる。
手に入れても手に入らなくても、何かしらの苦しみが生まれる。
「つながらない」勇気を持つ(P173)
LINEやフェイスブックなどのSNSで誰かとつながっていると、自分は一人じゃない、誰かに必要とされている感覚を味わうことができる。
ところが、人から好かれようと頑張れば頑張るほど、LINE返信やフェイスブックのコメ返しなど、面倒な手間が増えてくる。
「つながり」を増やそうとすればするほど、それに縛られ不自由になっていく。
感想など
自意識とか難しい話は正直よく理解できませんでしたが、つまるところ、「もうちょっと肩の力を抜いて、自分になんてこだわらないで生きていきなさい」的な話だと思いました。
「モテる努力がなぜ虚しいのか?」とか、仏教云々はおいておいても、いろいろ納得できる話が多かったです。
あと、特に最後のSNSの話は面白かったですね。
私もフェイスブックなどのSNSはやっていませんが、その理由がコメ返しとか「いいね」とか、そういうのが面倒だからです。
(あと誰でも閲覧できるネットに自分の個人情報を残すのも気になります。)
個人的には自分のペースで好きなことが書けるブログの方が気が楽。
本当につながりたい人とだけつながればそれでOKだと思うので、「SNS疲れ」の話とか、本当に大変だと思います。
誰かとつながればつながるほど、面倒も右肩上がりで増加。「知り合い」をどんどん増やすのも良し悪しです。
「人に好かれたい」「人気者でありたい」という気持ちはそれはそれで大切かもしれませんが、まぁ無理せずほどほど、自然で付き合っていける人たちとつながるのがいいです。
結局は「モテる」努力もホドホド、別に人から受け入れられなくてもいい、自然に受け入れてくれる人がいればそれでいい。
これくらい、ゆるーく考えて生きていくくらいが一番なのかもしれませんね。