人の未来は既に決っている、それとも?
百田尚樹著『フォルトゥナの瞳』(新潮社)のネタバレ有りの読書感想です。
あらすじ
車工場で働く20代の真面目な青年、木山慎一郎は、ある日突然、「人の死が分かる」という特殊能力があることに気がつく。
木山はその力で人の死の運命を変えられないかを考え、行動を起こしていくが・・・。
読み終えた感想など
2日かけてじっくり読了。
『夢を売る男』を読んで百田尚樹さんの小説に興味を持ったのですが、先日行った札幌の紀伊国屋書店でこの『フォルトゥナの瞳』が山積みになっていたので、読んでみることにしました。
死や運命をテーマにした小説でボリュームたっぷりの長編したが、文章の読みやすさや登場人物の魅力があり、気がつけば小説の世界に入り込んでいました。
読後は、読んでいるときに疑問を感じたヒロイン(主人公の彼女)の行動の理由が分かり、そこで「そうだったのね」と納得。
話も感動しましたが、「一つの世界に引きこまれた」という点で、『夢を売る男』同様、豊かな体験をさせてもらいました。
ちなみに、フォルトゥナとはラテン語で幸運を意味する言葉で、「ローマの神話に登場する球に乗った運命の女神」(P258)のこと。
瞳の力を持つことが、果たして幸運なのか、読んだ後はじっくり考えさせられてしまいます。
「人の死が見える」ということ
※ネタばれがあります
この小説の主人公、木山は自動車のコーティング工場に勤める男。車を磨き、ピカピカにする仕事をしています。
そんな木山がある日電車に乗っていると突然、「人の手が透けて見える」ことに気がつきます。
最初は気のせいにしてやり過ごしていましたが、どうしても気になっていきます。そしてしれがやがて、「その人の死を予感する能力」を授かったことが分かります。
やがて彼は行動によって運命を変え、運命は100%決まっておらず、死にゆく運命にあるものを救うことができるのではないか?と考えるようになります。
そんなある日、木山は自分と同じように「見える」50代の中年男、黒川(実は医者)と出会います。
黒川は、
「未来は人の人知を超えたもので、人の死が見えるからといって、軽はずみに未来を変えてはいけない」(P180〜181)
と木山に忠告します。
ある男の死を察知し、未来を変えた。ところが、その救ってやったはずの男が若い女性を犯し殺してしまいます。
「自分が半年前にあの男の命を救ったりしなければ、その女が死ぬことはなかった」と黒川は後悔。
この経験によって、黒川は、人の未来に干渉する愚かさを知ります。
他人の運命を変えると後悔することになるぞ。お前にもいつかわかる時が来る。
P196
と木山に伝え、黒川は去っていきます。
「死が見える」という設定
ところで、なぜ木山に人の死が分かる力を得たのか?
木山は幼い頃に両親と妹を亡くし、天涯孤独に。「死」を身近に感じた人が特殊な能力を身につける、そんな設定はほかの映画や物語でも登場します。
落ち武者の幽霊が裁判に参加するコメディ映画『ステキな金縛り』では、ある条件がそろう(死を身近に感じた経験をすることもその一つ)幽霊が見える人という設定が。
ジョン・マルコヴィッチ主演のハリウッド映画の『メッセージ そして、愛が残る』では、死を意識した人はこれから死ぬ人が分かる的な設定が登場します。
『ステキな金縛り』はコメディ映画なので悲壮感はありませんが、『メッセージ そして、愛が残る』は悲惨です。
『メッセージ そして、愛が残る』の主人公は、その能力を授かるために、その能力を開花させるものは、自分の大切な人を失うことになります。
『フォルトゥナの瞳』の主人公木山は、幼い頃に家族を失い、木山と同じように「見える」黒川も、祖父の死によって、その能力に気がつきます。
死は人生の終わり。死は「人生には限りある」ということを教えてくれる絶対者です。
人は生まれて死ぬという、変えられない絶対的なルールがある。だからこそ、残されている時間に意味が生まれる。
そう考えると、死を意識することは、未来を作ることの一つなのかもしれません。
未来が見えないということ
普段、私たちは「自分の人生に限りがある」ということを意識する機会はほとんどありません。
身近にいる家族、友人たちが、ある日突然いなくなるなんて、つゆにも思いもしません。
でも、もし、彼らがある日突然いなくなることが分かっていたら?
人は自分のことも含めて未来がわからないからこそ、生きていけるのだ。
P59
このようなセリフが登場しますが、これは本当にそうだと思います。
もし自分の未来が見えていたら、もし、大切な人の未来が見えていたら、それはとんでもない大変な苦しみになることでしょう。
木山は自分の特殊能力が開花。「その力で人を助けよう」と考えますが、その代償を知り、悩み考えた挙句、「死にゆく人の運命を助けるのはやめようか他人の運命に干渉するのはやめよう」と迷います。
そのとき彼は、次のことに気がつきます。
今後、誰の運命にも一切関心を持つつもりはない─そう心に呟いた瞬間、言いようのない寂寥感に襲われた。
孤独には慣れていたが、この時、胸に宿ったのは、今まで味わったことのない暗い虚しさをともなったものだった。
誰の運命にも関心を払わない人生というものが、恐ろしいまでに孤独だということを、慎一郎は初めて知らされた。
〜略〜
死んでほしくないと願う人がいない人生こそ、最も寂しい人生だということを今になって実感した。
P308
結局木山は、人の死が見えてそれを救うことの代償をその身に引き受けるという選択をするわけですが、己の幸福追求と他者への自己犠牲というテーマは考えれば考える程、答えが出ません。
「己の幸せが目の前にあるにも関わらず、大勢の人の命を救うために我が身を差し出す」
という自己犠牲のテーマは三浦綾子さんの『塩狩峠』など、他の小説でも描かれていますが、読後にどうしてもスッキリできないのも事実。
人間誰もが聖人になれるわけでもないですし、もしかりに、木山が大勢の命を助けようとせず、己の幸福を追求しても、それがなじられることなのか?
それとも、人の死が見えるという特殊な力を授かったのだから、我が身を犠牲にしても、その力を使って人助けをすべきなのか?
または、死ぬべき人たちは「時が来た」ということで、どんな形であれ、彼らが自然に帰るのを見送るのが正しいのか。
うーん、真剣に考えれば、答えの出ない難しい話です。
確約された運命はあるか
人の死を考えるときに同時に浮かぶのが運命。
人には定められた運命があるのか、それとも100%自分自身で作っていくのか。
「運命は決まっているのか?」
と悩む木山に職場の事務員のママさんはこう答えます。
私も若い頃はよくそんなことを考えたわ。
人生っていろんな選択肢があるように思えるけど、実は最初からどれを選ぶか全部決まっているんじゃないかって。
それでね、ひとつだけ分かったことは、いくら考えてもそんなことはわからないということ。
だって人生はやり直しがきかないからね。過去に戻って選び直しってできないからね。
P102
これはもっともで、もし人生が同じ状況でやり直せるなら、運命云々、その正確性を考えることができかもしれません。
でも、結局人生は、どんな選択も、全てが1回限り。
同じ状況にはならず、1回1回の選択を積み重ねることで、それが未来へつながる道へなってきます。
だからこそ、
人生は皮肉なものだ。誰にも一寸先はわからない。しかし、わからないからこそ、生きていられる。
P244
一寸先は闇であり、光でもあります。
結局、運命があるかどうかは、自分に迎えが来るときにしか分からないものかもしれませんが、答えが分からないこそ、答えを見つけようともがく。
それが人生の楽しみかもしれません。その方が、答えが分かっている道を歩くより、ずっと楽しめるはずです。