愛が感じられないなら、存在しない?『ひとを愛することができない―マイナスのナルシスの告白 』を読む

ひとを愛することができない―マイナスのナルシスの告白 (角川文庫)

人を愛するという能力の欠けた男と、その男に愛されたいと願う女の悲劇。愛されない悲しみが憎しみの復讐劇へ。

そんな家庭環境の中で育ち、自身も「愛する能力が欠けている」という哲学者中島義道が愛とは何かを考える『ひとを愛することができない―マイナスのナルシスの告白』の読書感想です。

愛するという能力が欠けているとしたら

結論から言うと、読後非常に後味の悪い、気持ちが沈む本でした。それはまるで、ジョン・レノンの「母の死」を聴いた後のような後味の悪さです。

この本では、「愛とは何か」を考える本ではなく、中島義道が自らの家庭環境を振り返り、父親、母親、愛という名の家族のダークサイドをえぐりだしていく、非常に私的な内容のように思います。

本書のサブタイトルにあるマイナスのナルシスとは「病的な自己愛に身体のすみずみまで手のほどこしようのないほど侵され、そのあげく他人を自然に愛することができない男あるいは女」(P13)のこと。

このマイナスのナルシスとは、氏の父親であり、氏自身の姿を表現した言葉です。氏の家庭は、父親が「愛する能力が欠如した人間」であり、母親は「愛す能力を失くした男に愛を求め続けた挙句、歪んで苦しんだ女」です。

本書を読み進めていくと、中島義道の家族の私的な部分、赤の他人が触れてはいけない部分に触れたような気がして、本を読み進めていくのがためらわれる場面が幾度もありました。

それでも、愛とは一体何のか、中島義道の考察と自省が興味をそそり、「見てはいけない、でも見たい」という、複雑な感情が自分の中に湧き上がるのを感じる、不可解な本です。

愛はパワーゲーム?

「愛とは何か?」という中島義道の考察は、字面だけを追うと、ひねくれ者の理論のように思えます。

「より多く愛している者は、いかにしても相手を失いたくないという一点で、すでに敗者である。より少なく愛している者は、相手をいつ失ってもいいという一点で、すでに明らかな勝者である。」(P65)

「彼女は男が彼なりに「愛している」と語ることを禁じる。彼は愛について語る資格はないのだ。愛しているか否かは、彼女一人が決めるのであり、それにわずかでも口出しする彼は、はなはだ不謹慎なのであり、はなはだしい越権行為なのである。」(P96)

「愛は独特の暴力をうちに含む。その暴力をもって、愛は相手をさまざまなかたちで支配する。直接的な支配でない場合が多い。当人が支配している、と実感していない場合も多い。もっぱら自分が相手に支配されていると自覚しながら、じつは相手を支配していることもある。」(P110)

愛とは誰かが勝ち得て誰かが失うパワーゲームの一種。愛は勝者だけの者であり、競争である以上、敗者がいる。

男は女をデートに誘い、女はデートをする相手を選ぶ。男は誘うことはできるが、選ばれるかどうかは、女次第。ここでは、男が愛というゲームの敗者であり、女がゲームの勝者です。

しかし、理屈はこうでも、実際の事態はもっと複雑で、ドロドロしています。それは、この本を読みすすめていくと、複雑さと理解しえないやるせなさが深まっていきます。

個人的な感想・想像など

「愛」というものは思えば不思議なもの。

男と女、親とこども、その他いろんな組み合せがあるものの、考えれば考えるほど、愛なんは抽象的で、具体的に理解しずらいもののように思えてきます。

例えばこんな家族の話。

「家族を愛している」と言いつつ、春を売る女を買う男。夫への愛はなく、夫から触られたくないと夫婦の関係を拒み、こどもの教育に執着する女。彼らのつながりは、家庭という枠組みのなかで人生を共にしています。

彼らの関係は、形としては愛ある1つの家庭なのかもしれませんが、内容はバラバラ。結局、男と女を結びつけているのは家族という枠組みへの愛情や打算であって、愛情や献身などの感情ではない。

しかし、彼らの中には断ちがたい何かがあって、それが、家族が解体するのを止めている鎖となっている。同時にその鎖は、彼らを縛ってもいる。そのつながりを愛というべきなのか、縁というべきなのか、それは決して分かりません。

相手のことを思い、胸が騒いでしかたない。しかも、相手も自分のことが好き。こんなシンプルな時代が人生の一時期にあるものですが、そのわずかな時期にだけ、「愛」という概念が存在するものなのかもしれません。

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