倉田百三著『愛と認識との出発』(岩波文庫)という本を読みました。
この本は大正時代に流行した、今で言う自己啓発書で、青年が人生における様々な諸問題について悩み考察している、若き魂が宿っている本です。
昔の本なので、文章は堅く、読みづらいところも多々あります。
しかし個人的にはこの本を最後まで読み終えて、1つのことに気づきました。それは、本書を読了する価値があったことを実感するには十分すぎる、ということでした。
ではその気づいたことは一体何なのか。それはずばり、時代は変わろうが人間の悩みは変わらない、ということです。
内容について
本書では、善が云々とか、悪がどうだとか、宗教がどうだとか、いろいろ小難しいテーマが出てきます。
しかし、そういう話は一切スルーして、愛や恋、友情について書かれた文章を読んでみます。すると自然に、この著者に好感を持つことができます。
なぜなら、本書で書かれていることは、今の私たちが悩んでいる問題と、その本質は全く変わらないからです。
たとえば、P103。
著者が女性への思いを強め「ホンモノの女性を知りたい」という欲求を抑えられずに娼婦に手を出した挙げ句、女性に幻滅する告白があります。
正直、この文章には声を出して笑ってしまいましたが、今の若者でも似たような経験があることでしょう。
すなわち、女性とご縁がない青年が大人のお店に足を運ぶ。本書では哲学的にかっこつけて書いていますが、結局本質はそういうことなのです。
このような感じ、ところどころ、著者のリアルな人間像が浮かび上がり、「そうか、いつの時代も青年は変わらないのだ」と、不思議な感慨を感じます。
青年の本質とは情熱と情欲である
早い話、個人的にはこの著者に好感を持ったのが正直なところ。
人生はなんぞや、女とはなんぞやと、いろいろ哲学的に云々していますが、本質は素朴で普遍的です。
もし著者が今の時代生きていたら、2chにポエムを書き込んだり、twitterで意識が高いことをつぶやく青年になっていることを確信しています。
それについては、このような文章に、その片鱗がはっきりと示されています。
恋愛の究極は宗教でなければならない。これ恋の最も高められたる状態である。
私は私の心身の全部をあげて愛人に捧げた。私はどうなってもいい。ただ彼の女のためになる生活がしたいと思う。
私はすべてのものを世に失うとも彼の女さえ私のものであるならば、なお幸福を感ずることができるのである。
私は決して彼の女に背かない。
P108
本書ではこのように、ほとばしる情熱に満ちた言葉が満載です。
とくに、
恋は女性の霊肉に日参せんとする心である。
P109
とかもう、何度読んでも笑ってしまう。
そんなど真面目な書き方しなくても、「女性とあんなことをしたい」とか、もっと普通に書けばいいのに。
まぁそれをしたら芸術性も哲学も何もないか。
何はともあれ、本書は心をわくわくさせる情熱的な文章に満ちています。
そして、青年がおじさんになり、そして老人になる。人生を生きていく過程で直面する課題というのは結局みな同じであること。
そのことを、実感します。
感想など
ということで、人生を深く考察する意味でも、青年時代を送りつつ、恋とか生き様とか、様々な課題に直面したとき、本書が手元にあれば、ある意味安心できます。
そう、自分が悩んでいることはかつての青年もみな悩んだこと。考えに考えて、各々が答えを出していくことであること。
そのことに気づき、自分は一人ではないことを実感できます。
全体に小難しく読むのが眠くなるところも多々ありますが、それ以上に、印象的で心に響く言葉がたくさん見つかる。
そんな本です。