読書を習慣的に始めてもうすぐ10年。
読書を始めた当初は自己啓発的な意味合いが強かったですが、日々本を買って読んでいくにつれ、最近は良い意味で気合が入らなくなったなと感じています。
読書をするというのは前向き、そんなことを連想しますが、別に何かを得るために読書をする必要はないと思います。
「本から学ぼう!」と気合を入れる必要はなくて、読みたいと思う本を読む。気になる本を読む。別に何を読んでもいい。
近頃は読みたい本、買いたいと思った本を乱読的に読んでいますが、先日読んだ『乱読のセレンディピティ』という本にも乱読が推奨されていてなんだか安心。
楽しいから読む。気になることがあるから読む。だから読書が習慣化していくのだと思います。
読書に意味を求めない
「○○のことが知りたい!」と思ってする読書というのは、ある意味予定調和。知りたいことを知り、そこで完了するので、予想以上の発見というか、驚きはありません。
でも、本屋さんをぶらついていて何となくタイトルが気になった本、ただ何気に読んでみた本のなかに、「今必要としている情報はこれだ!」というような発見があったりします。
これは不思議なことですが、だからこそ読書はとても面白い。読まずにはいられない。
(こういう感覚はネットでも同じで、ダラダラネットを見ていても、ふとある時、とても気になるキーワードを発見してそれを追っていくと、予想外の新しい発見があります。)
だから読書をするなら、「自己啓発」とか「自分磨き」とかそんなことを考えず、ただ読みたいと思う本を読んで、興味が湧いた本は、テキトーに自由に、好きに読めばいい。
それが自然なのかな、と思います。
読書で発見できるもの
本を乱読して気になる本を読んでいく。
そういうことを続けていると、それがどこかで線と線でつながるようになってきて、ある段階で、「自分はこういうものを求めていたんだ」という形になっていきます。
それこそが自分のテーマなのかもしれませんが、無意識的に乱読していると思えても、実はそこに一定の規則性があったりします。
こういうことを考えると、人の行動は本当に無意識的で、方向性があるものだなと驚いてしまいますが、少しづつ、パズルのピースを埋めるように、その過程を楽しめばいい。
そうしていると、読むべき本は読むことになるし、そこから面白い発見がいろいろあります。
この意味で、読書は出会いの一つですが、もし読書に「べき」論があるならそれは一つ。読みたいと思った本、気になった本を読むべき。
それが最大にして一番の読書の楽しみだと思います。